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抑も、上和田浄珠院の濫觴は、人皇第三十一代用明天皇の遺勅により造立された、上宮太子(聖徳太子)直作の孝養像を安置し、慈覚大師(天台中興の祖、円仁)が人皇五十四代仁明天皇承和年中(834〜848)に創建された道場で、清光山大海寺と号す。その後、星霜相遷り、堂宇廃絶せしを、応永年中(1394〜1428)、開山教然良頓上人(松平二代泰親の長男)京都円福寺の会下より故郷に帰り、仏殿を造立し、元の天台を浄土と改宗して、浄珠院と号した。しかし、仏殿僧院が整備されていないことを歎き、享徳元年(1452)上洛して、将軍義政公に就いて、後花園院に奉請し、勅願料として砂金百両、齋田百貫文を賜り、七間四面の太子堂、十三間の仏殿及び庫院等を周備して、開山以来三代の間、深草派檀林の地となり、二百有余の所化を領した。

その後、徳川公祖先の領地となり、長親公より広忠公に至るまで先規の如く、羽根村に於いて百貫文の地を賜った。(後羽根村で六十余石領有)その後、先祖広忠公並びに伯父与十郎信孝公より、当寺は御懇意を賜り、度々御入寺され、天文五年十月(1536)六名村天神崎を永代地として八町四方の地を賜り、御証文を頂戴し、殿堂を天神崎に移すよう仰せられた。しかし、程なく、天文十一年(1542)尾張織田勢と対峙し当山を本陣にし、今川勢と共に小豆坂で織田勢を打ち破り大勝利を得るなど、城下に騒動があり、天神崎は当山の茶園にしていたが、永禄三年(1560)家康公岡崎帰城後に賜った。

然れども後、永禄六年(1563)一向宗門徒一揆を起こし家康公に敵対した折、家康公も又、当山四辺に陣屋を構えられ、当山を本陣にされた。老臣大久保一家が軍勢を添え、当山末寺及び檀徒が加わって御守護せり。翌年、一向宗の一揆勢との仲介をしていた大久保浄玄(忠俊)より、先非を御放免下されば屈伏する旨を聞き、家康公は御立腹甚だしく、一向宗の寺院残らず破却すべく御出馬せん折、浄玄(大久保忠俊)並びに当山住職利空(当山四世)が、御馬の口を止め、「大義を御考えの御身、小事に囚われ、無益な殺生は御控え下さい」と御諫めし、捕因した一向宗僧徒を断頭に罪すべきを、当山太子堂前で神文誓書を奉りて放免し、一向の宗徒を立て置く事を許されたり。その時分、家康公より、広忠公供養の為とし、梵鐘を広忠公の御位牌と共に一口賜る。

その後、天正十八年(1590)家康公が関東へ入国され、岡崎城主が田中兵部大輔吉政に変わり、以前の寺社領を取り上げられて、仏殿太子堂は破却され、矢作川天白の大堤水門の用木となり、以降住職も居らず荒廃した。檀家此を嘆き、三間半四方の太子堂を造り、阿弥陀・太子を一所に安置し、監主の僧を置いて香華を備えた。

然るに、慶長六年(1601)伊奈備前守殿が当国巡視の折、各寺院に寺領を下され、当山も寺領十五石を佛供田として下し置かれる。慶長八年(1603)家康公より朱印を下されるとの尊命に依りて、三河の寺院社家の多くが、伏見城に到りて此を頂戴したが、当寺は監主の僧で在った為、恐れて出なかった。于時上意として、三州上和田浄珠院は出頭せざるかと、同宗寺院に沙汰せらる、依って監主急ぎ伏見に到り、伊奈備前ノ守より十五石を領する旨を申し上げれば、浄珠院は大寺なり加増を願い出よと仰せられるも、監主辞退して拝領せず、故に二十石の朱印なりと伝う。

その後、由緒故に徳川幕府からも御懇意を賜り、歴代御将軍が御他界され、芝の増上寺にて御法事が催された砌、朱印二十石なれど、石高五十石以上の壇林扱いの上、石高百石以上にしか許されない座具を用いての、納経拝礼を許された。又、三河十二本寺の一つとして、浄土宗の総触頭である芝の増上寺と三河の寺院との間を取り持つ触頭を務めて宗門に寄与すると共に、学問所として幾多の僧侶を排出して来た。

更に、幾度となく菅生川が増水した折、上和田の月之輪堤が決壊し、浄珠院領を含め上和田近隣が甚大な被害を被った際には、その度に、歴代の住職が岡崎領主に願い出て、修復を依頼するなど、地域にも大いに寄与してきた。

その後、星霜相遷り、現住三十世祥空隆盛に到る。
姓は、松平信光公の従弟であり、三河の守松平泰親公の長男で、幼名徳丸と言い、泰氏殿と呼ばれていた。占部郷變相寺(深草派三河最初の道場で、永正の頃、兵火で廃絶する。現在の正名の永應寺はその旧跡という。)の浄俊妙意上人の弟子となり、薙髪受戒して、名を教然良頓と改める。学への志厚く、上洛し京都円福寺で暢意和尚に師事し、朝鍛夕錬厚く学に勤め、自他の群籍で研鑽しない物はなかった。遂に、伝法伝衣し、衆長に抜きん出で、解行共に熟す。而して、円福寺を辞して、三河に帰り、法蔵寺の龍芸和尚に謁し、再び戒脈を受け、占部の隣村上和田の浄珠院を再興し、講鐘を鳴らし法を説いた。その栄名を聞き、次第に聴講し弟子となる僧俗が増えていった。

晩年、坂崎に西方寺を創立し、津の平に青海寺を立て、跡を法弟海然に譲り、自らは西方寺に隠居した。

寛正二年(1461)松平信光公に屈請され、信光公の婦人と長男の霊前に一轉語を下す。又、信光公も絶塵の模範となして、妙心寺を草創し、真浄院を開基した。而して、上人は徳川氏祖先より熱心な帰依を受けた。以て、上人は、起行専実、日課三万聲を期し、病患に冒されても日課を怠らず。存日の風光は、覆って而も隠さず。貴賤は、上人の徳を敬い、帰依をした。

遂に、紫雲(山)西方(寺)、欣求浄土の床に、寛正五年二月二十二日(1464)、世寿七十五歳を一期として、奄然として示寂す、遺弟啼泣して荼毘に付し、遺骨を法性山妙心寺に埋葬し、石を畳み圓塔を建てた。
聖徳皇太子十六歳自作の霊像は、人皇三十一代用明天皇第二年丁未四月二日(586)、天皇御病脳にましませば、太子深く此を悲しみて御孝心止みがたく看護したまえり。その御病脳重ならせらるるや、自ら装束の上に袈裟を着し、東方に向かいて、手に香炉を取り捧げて、以て、その御病脳の平癒を、薬師如来に祈念したまえり。天皇その孝心尋常ならざるを見たまいて、「汝、その孝養の像を、朕が枕上に止めよ」と詔あり。依って、太子自ら此を彫刻せられたり。

この像、後に大和国法隆寺に安置せしが、延暦五年二月二十二日(786)の夜、伝教大師御霊夢に感じ、大阪四天王寺の六時堂に安置せられしが、その後、慈覚大師は伝教大師より此を伝持して、常に此を負い奉り、東国に遊化して、この地の霊跡なるを見て一宇を建立し、この霊像を安置して大海寺と号し、則ち天台宗比叡山の末院となせり。

その後荒廃せしを、応永年中教然良頓上人此を再興し旧観に復せり。その後、永禄六年(1563)一向宗一揆が起こり、家康公は討伐の功をはたし、一向門徒子々孫々に到るまで家康公に御奉公仕る旨起請文仕り、この霊像の御前にて、血判し和睦に相成り、その後、家康公は武運を開かるる。

然るに、天正十八年(1590)家康公が関東入国、岡崎城主が田中吉政に変じ、堂宇は破却され、霊像も劫火に晒されるも、霊験故に破却するも能わず。檀家此を嘆き、三間半四方の太子の堂宇を造り、弥陀・太子霊像を一所に安置し、香花を備えたる。

遂に、家康公は日本六十余州御手に入り、念仏繁昌の御代となりしも、この霊像の御利益なり。御上意ありて、この太子霊像の御堂を開運殿と号し、霊像を神君様の御神体と崇敬すべき旨ありて、再興さるる。その後、その余薫を受け、霊験を蒙りたまう縁者、数限りなし。

誠に、聖徳太子は本朝仏法興隆の明君、西方浄土阿弥陀佛左面の菩薩、観世音菩薩の化身なれば、その霊験灼かなり。
本尊阿弥陀像は、慈覚大師が東国に遊化された砌、此の地の霊跡なるを見奉られ、負い奉られたる太子像を、御守りすべく、一宇を建立するを決せらるる。然るに、聖徳太子が大師の夢に出られ「此の地は霊跡なり、我は佛に非ず、本地を守護すべき阿弥陀佛と共に祀れ。」と御告げ在り、大師霊夢に従いて、御手に鑿を持ち、造られたる尊像なり。宇堂建立せし後は、太子像と共に祀らるる。

その後荒廃せしを、京都より帰られたる教然良頓上人、霊跡荒廃せしを、大いに嘆き、此を復興し、旧観に復せり。然るに、上人、尊像が、三尊成らざるを嘆き、自ら観音、勢至の二菩薩を、造られたまい、三尊に成りたる尊像なり。その後、三尊像揃いて、太子と二師の願いを乗せた弥陀の光明に、願いを託す縁者は列を成した。

然るに、岡崎城主田中吉政に変じ、宇堂破壊され、霊像劫火に晒さるるも、霊験故に破却されず。而して、縁者此を嘆きて、太子像と一所に安置し香華を献じた。 遂に、家康公天下を収め、念仏興隆の御代と成り、此の三尊像は、太子の夢告により大師、上人が願いを託された像為れば、縁者は一宇を建立して再興し、三尊像は衆生に崇敬された。 

聖徳太子と二師の縁を受けた三尊為れば、西方浄土の教主阿弥陀如来の光明と、観音の慈悲、勢至の知恵の光は、念仏の衆生を、摂取して捨てたまはず。その後、三尊の光明の縁に、浴す縁者数限りなし。
本地善光寺阿弥陀如来は、信州川中島に在して、天竺、百済を経て本朝に伝来した、三国伝来、一つの光牌の中に阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩の三体の仏様が立って居られる、一光三尊、善光寺如来の分身なり。

昔、中天竺毘舎離国に、月蓋長者と云う慳貪邪見の長者が居り、其の娘 如是姫 が、五種の温病を煩い、長者は之を大聖世尊に嘆く。 世尊曰わく、「吾が力には及ばず、之より西方十万憶土を過ぎて、世界あり、名付けて極楽と云う、其の土の教主、阿弥陀如来に願い奉れば、平癒する事を得る。」と曰へり。月蓋大いに喜び、一心に西に向かい願い奉れば、平癒する事を得たり。依って、此の如来の尊像を写し奉り、未来有縁の衆生を済度し賜わん事を、願い奉れば、不思議なるかな、釈迦、弥陀、二等光明に依って、顕れ賜う尊像なり。


斯かる霊験不思議なる尊像の分身にして、三河国四十八願所、第三十九番に当たらせ賜う尊像なれば、三十五里の山坂難成を越えての、参詣の思いをなして称名の声諸共に拝礼を為せば、三垢消滅し、善心が生ずるは必定なり。


御詠歌に曰く  当国第三十九番  浄珠院
阿弥陀仏の  きよき光に  照されて
津ミ皆ながら  きゆる うれしさ
聖如意輪観世音菩薩は、聖徳太子の御本地佛で、御鞘佛は六臂の如意輪なるが、御腹内に納め奉るは、金銅、二臂の如意輪観世音菩薩にて、往昔、聖徳太子、金銅を以て自鋳したもう所の尊像なり。太子此の尊像を常に深く崇敬したまう。ある時、秦川勝と言う者に御附属ありしが、川勝又此の尊像を深く信仰したまう。その後幾百年の星霜を経て、縁在りて、当山開基教然良頓大和尚、此の尊像を京の都より持参し、故郷三河国に下りて有縁の者を済度せんと、此の霊跡に来たりたまいて、廃りたる天台宗の道場を中興し、宗旨を改め浄土宗と成したまう。折から元より、此の地に太子御直作の十六歳の尊像在りければ、その縁に上人歓喜浅からず。則ち、此の観世音菩薩を、太子の御本地佛と崇敬したまう。その後、此の観世音菩薩により、有縁の者、種々の霊験を蒙りたまうこと数限りなし。



御詠歌に曰く  当国第二十三番  浄珠院
あふぎみよ こころのやみを てらすてふ
ほとけのみての たまのひかりを
此なる十一面観世音菩薩は、往昔、弘法大師の御作にして、その後、天台座主大僧正慈鎮和尚が、西山国師へ御附属したまう所の尊像なり、国師、善峯の北尾往生院に於いて、鎮勧用心御所録の砌、宇都宮弥三郎入道実信房へ授けたまいしが、実信房平生国師に給仕の思いを為して、此の尊像を信じ奉れば、不思議の霊験を蒙ること上げて数え難し。その後、星霜相遷りて、当流派より当山にもたらされ、当山鎮守として今日まで守護せられたる。

沙門源弘の夢告に「西山国師は十一面観音の化身なり。国師の門流は、必ず十一面観音を安置し奉るべし。」と曰く。弘法大師御作の国師の守護仏なれば、一度拝礼すれば、生死の苦難を離れ、仏性の花開かしめんこと必定なり。
此なる「絹本著色法然上人絵伝」は、南北朝から室町時代前期(1390年前後)頃、覚如(親鸞上人の曾孫)が浄土宗の開祖法然上人の御生涯を描いた「拾遺古徳伝絵」を基にして、掛け軸六幅に描いた作者不明の絵伝で、元は然るべき一向宗(浄土真宗)の寺院で所蔵されていた絵伝なり。

然るに、永禄六年(1563)一向宗徒が一揆を起こし、家康公が討伐の功をはたされ、当山太子像の御前にて神文誓書を奉り放免し、当山に一向宗の宗徒を建ておく事で許されたり。その砌、一向門徒の信仰の証として、家康公直々に下し置かれたる、絵伝なり。

その後、一向宗門徒並びに当山壇信徒を問わず、この絵伝を拝礼しようと列をなした。

その後星霜相遷り、享保年間(1716〜1736)再興されたが、更に星霜相遷り、積年の損傷激しく、平成13年現住祥空代に、岡崎市と有縁の縁者の協力を得て、修復再興される。
松平広忠公並びに伯父與十郎信孝殿と当山四世利空は、前代松平清康公の頃より、御懇意を蒙りたるを以て、度々来寺在り。此の御縁深き間柄なるを以て、御城下騒動の砌、則ち天文十一年(1542)尾張勢と対峙の時、当寺に本陣を構えられ、今川勢と合し、小豆坂で織田勢を打ち大勝利を得たまえり。此の時、遠州日吉山神宮寺より持参の鐘を軍用に使用せられたり。また、永禄六年(1563)三河一向一揆の砌、家康公も又当寺に本陣を定めらるる。時に、当寺檀末の僧俗協力して、その本陣を守護せり。翌七年二月一揆平定し、その二十八日当寺に於いて御放免の事仰せ出さる。その時、広忠公御菩提の為、位牌と共にその鐘を寄附せらる。洪鍾銘下記の如し。

大日本國遠江州豊田郡野那郷
日吉山王神宮寺之洪鍾本願檀那信女普明謹奉鑄
文明二年庚寅十一月吉日(1470)        敬  白

その後星霜相遷り、此の洪鍾は、先の大戦で供出され、昭和五十三年当山二十九世隆空訓盛により再興され、現在に到る。
松平信孝は、三ツ木城主にして、家康公の祖父の兄弟にあたられ、当山四世利空と懇意なり。天文五年(1536)広忠公と共に当寺に来たり「寺地八町四方を寄進す」との寄進状に、役人百姓より入れたる証文を添えて、住持に贈れり。その後、天文十七年四月十五日(1548)岡崎明大寺に於いて討ち死にす。平常当寺に帰依し、且つ、以前の約束に依り遺骸を当寺に葬り、石碑及び位牌当寺に現存せり。


その後星霜相遷り、三ツ木に異変在り、此の墳墓が損傷したるが故なりと託宣在り、依って昭和六十年十二月縁者挙って修復し、その後鎮まり、現在に到る。


松平信孝碑
石碑 表 三ツ木城主
松平信孝公の墓
法名 清光院殿忠岳心照大居士
天文十七申年四月十五日妙大寺村ニテ討死
岡崎市教育委員会
同 裏 昭和六十年十二月吉日建之
松平信孝公之墓再建世話人
浄珠院第二十九世平井訓盛
上三ツ木町
下 三ツ木町
上和田町
浄珠院世話方
〒444-0201愛知県岡崎市上和田町字北屋敷55番地/清光山 大海寺 浄珠院

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